こんにちは。金澤一声です。
昨日は「視覚」のいい加減さについて話ししたんだけど、視覚だけでなく人間の感覚ってなんとも曖昧なものだと感じています。
こと自分中心の「主観」だけならなんも問題ないんですが、相手がそれをどう捉えているか?という「客観」に関しては、それはもうほとんどアテにならないもんだと思うわけです。
一つの例だと「香料」。
これは「嗅覚」の曖昧さを表現してる現象だと思うんですが「イチゴの香りのする消しゴム」の香りは、やっぱり「イチゴ」らしい匂いがする。
本物のイチゴじゃないのに・・・消しゴムなのに・・・イチゴって。
しかしそういった香料を調合する「調香師」さんってスゴイなとも思います。
だって、曖昧な嗅覚というものに対して、殆どの人が「これはイチゴだ」と思える匂いを合成するわけだから。
10人中8人とか9人が「イチゴ」を連想する匂いを、化学的に合成できるのはスゴイと思うし、同時に「やっぱり嗅覚ってアテにならんわ」とも思います。
皮膚の温度覚にしても、ドライアイスを直接触ったときなんか冷たいよりも先に「痛っ!」って、痛覚が刺激されたり、そもそも熱いのか冷たいのかすら、はじめはわからないくらい「いい加減」。
・・・だけど、そんないい加減な感覚を頼りに生きていくしかないわけで、最終的には「直感」というある意味究極の感覚で生きていかざるを得ない。
唯一の救いは直感も含め、感覚って「磨くことが出来る」「敏感にすることが出来る」という部分。
限度は有るけど、精度を上げることが出来る。
そして反対に、磨き続けないと精度が落ちたり感覚が鈍くなったりする。
自分の拠り所「感覚」。
頼らないと生きてはいけないからこそ、できるだけ磨いて、頼れる所にしておきたいものです。
では。
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